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●選挙はプロのはずやがなあ…
  我が石井はじめ秘書軍団というのは、都市型選挙に長けた、強者揃い…というのが県政界の定評でした。石井はじめ秘書出身の地方議員や、首長は30名近くになります。ある意味これも、今流行の「石井政経塾」と呼べるようなものかも知れません(笑)。ただ、それらとの違いは、何も「授業」のように教えてくれない…ということです。すべて「実践」と「実戦経験」で、自ら会得していかねばなりません。ボクがそんな軍団に入って、15年間もまれるうちに、選挙コンサルタントとしての「道」を見つけ、今に至っていますが、思い起こすに、ボクが新米秘書の頃の、最大のアイデアマンは、石井さん本人でした。石井さんが、企画し、秘書会議でそれを軍団に指示する…という体質でした。当時の先輩秘書達は、殆どがイエスマンばかりでした。絶対権力者として、石井代議士がすべてを仕切っていました。ボクが新米秘書当時は、秘書軍団のトータル人数は、20名近くいましたから、そんな中、石井さんに認められて「階級」を上げていかないと…雑巾がけばかりの、使い走り秘書のままです。それは、ボクのプライドが許しませんでした。ボクは、秘書2年目くらいから、ドンドン「企画書」を出し、石井さんを唸らせ…それらの企画を成功させ…という繰り返しで実績を積み、7年目には筆頭秘書として、選挙の企画すべてを任されるようになりました。以降、退職までの8年間もずっと、後援会活動の企画と選挙を任されていました。ボクの秘書在籍中に、沢山の秘書が、立候補して当選したり、落選したり、解雇されたり等で出入りしました。その人数はのべ100人はゆうに超えます。でも、そんなに沢山OBがいても、「選挙コンサルタント」として活動してるのはボクだけです。秘書経験だけでは、なかなか出来ない仕事と言えるのです。
  そして、この石井代議士秘書を10年超も経験してて、市会議員選挙に初出馬し、最下位で当選。2回目も、当選はするも最下位という、まあ危なっかしい後輩がいました。勿論、彼等なんかにドブ板選挙で、教えることなんてまあ…ありません。10年も同じようなことばかり秘書時代にやってきてます。「今更、そんなことオレに言わせるな!体が覚えとるやろがー!!」と叱りつけてやりますわ(苦笑)
  しかし、まあ…ボクの後輩のこの現職市会議員は、実はボクと同じ1990年2月の総選挙で、ボクの指示により「投票依頼電話による運動員買収事件」を実施した、一地区の責任者だったため、ボクより、数日前に逮捕拘留され、後の裁判で有罪となり、執行猶予が満了となってから市会議員に挑戦した…というヤツなのでした。まあ、彼の罪は軽く、懲役10ヶ月の執行猶予3年だったかと思います。
  そんな後輩現職市会議員から、コンサルの依頼があったのは、2度目の最下位当選を決めて一年くらい経った頃でした。
  『なんかねえ…もう最下位ばっかなんで…なんとか上位で当選できないもんかな…と、ヤマグチさん、是非なんとかして下さいよ!!もうカッコ悪くて(苦笑)』


●「選挙クリニック」診断と分析
  この後輩の秘書時代は、まことに地味なタイプでした。見た目は「くそ真面目」に見えるタイプで、弁舌もどちらかと言えば下手なほう。出身は千葉県で、普段の話言葉は関東弁。ボクと同じに、新聞による「秘書公募」で応募してきて採用された男でした。東京で採用後、まもなく、神戸に出向し、選挙区の下町エリアの区を担当区にさせられたのです。そして10年超、その担当区に専念して、石井さんの後援会活動、選挙運動をやってきたのです。選挙で何をやるのか…何が違反で、合法でとかも熟知しおり、そういう面では、教えること、指導することは無いはずです。
  先ず、それでも一応、当社の「選挙クリニック」を受診してもらい…コレまで2回当選…だけど2回とも最下位当選の理由を探ることにしました。
  しかし、この「選挙クリニック」は、当社の大事なノウハウなので詳しく書くことは出来ません(苦笑)
  先ず、診断以前に、この彼の選挙区では、ある意味、彼にとってかなりの「障害的な選挙事情」が存在していました。同じ石井代議士の秘書出身で、ボクにとっても先輩にあたる現職市会議員が当選回数を重ねていたのです。この先輩秘書の選挙の時は、ボクは現役秘書でしたが、彼が当時は筆頭秘書でした。しかし、彼は主に「資金集め担当」の秘書だったので、選挙は得意ではありませんでしたし、実際、選挙運動もあまりしていない筆頭秘書でした。だから、彼が筆頭でいるときも、すでに石井さんの選挙運動は、ボクが仕切っていました。そんな訳で、この筆頭秘書の市会議員初当選の時の選挙も、ボクが事務局長として選挙を仕切ました。
  以来、彼はつねにトップ当選を続けていたのです。ただ、彼の手の内は、まさにすべて掴んでいました。ただ、同じ石井系ということで、同じ土俵の「票」の取り合いとなるわけです。この選挙区は、定数6で、この先輩、共産、公明党2名、民主党(当時は旧社会党)ときて、この後輩が最下位でした。そういう事情でいくと、先輩議員の票を少しでも奪い獲らないと…上位には行けません。
  まあ…政治の世界の「非情」さが、ここで出るのですが…「同族争い」となるのです。しかも、ボクはそれまではこの先輩議員ともイイ関係を構築していて、時々彼の事務所に顔を出すような付き合いでした。しかし…ボクはプロです。「依頼」を受けて契約した限り…容赦なく、非情になって闘わねばなりません。当然、ボクがこの後輩のコンサルについたことは…どこからかすぐ漏れ渡り…先輩の耳に入ることになりました。「アイツは、二度と出入り禁止や!」というふうに、先輩が怒ってる…というのも、ボクの耳に届きました。仕方ありません。
  さて…その後輩の「選挙クリニック」の結果ですが…、まあ、簡単に言うと、ドブ板戦術はまあ、なんの問題もなく、合格点でした。イメージ戦略が非情に弱かったのです。先輩が「チカラ強い政治家」の印象なら、この後輩は「ちょっと頼りなさそう…」というイメージだったようです。
  真面目な印象はこの二人は共通していました。地味な印象もやや共通しています。とにかく、そういうイメージを強力に補完するイメージ戦略構築が必要だったのです。そして、やや派手な印象を与えるカラー使いも重要な要素となりました。明るさの演出を一新し、選挙区の有権者が見て、「エライ、この人、イメージ変わったなあ…えらい明るうなったなあ!!」と思ってもらえるようにすることで、印象を変えようと思いました。そして、もヒトツは、キャッチフレーズです。それを読んで、見て、「おもしろいやん!!」と思わせるものが出来れば…注目して貰え、印象に残るからです。 
  ボクの、恒例の「フル回転」がスタートしました。


●「理想は高し…!!」
  先ず、イイキャッチフレーズがすぐに生まれました。この後輩議員の名前が、森本たかし(仮名)と言います。その「たかし」をもらいました。「理想は高し…!!」という言葉をキャッチフレーズにしたのです。
  「理想は高し…森本たかし」語呂合わせが抜群です。コレだ!!でした。あと、彼の地味なイメージを払拭するために、普通は男では使わないカラー「ピンク」色をイメージカラーにしました。目立ちます。コレは、選挙の一年ほど前からこのイメージカラーのポスターが街に出だして、かなり目立ちました。
  名前のロゴにもピンクを使いました。すべて統一されたイメージ戦略のビラや、ポスターや、名刺や、リーフレット、看板があふれ出し…イイ感じでイメージ戦略は成功したと思います。
  普通、ボクがコンサルする選挙では、ボクの「ポスター」への評価はかなり低く、そんなに大事なアイテムではないのですが…ココだけは「事情」が違っていました(苦笑)。効果絶大だったのです。よく目だってましたし…いろんな選挙関係の人たちから、「アレ、ヤマグチさんやろ!!見たらすぐ判ったわ!!」と電話等を貰いました。又、本人にも、ピンク色のワイシャツなんかを常時着させました(苦笑)。選挙運動で日焼けした顔によく似合いましたわ。


●さてさて…どうなるか…
  この後輩議員の時の、統一地方選では、ボクは他にもクライアントを抱えていたので…まあ…この候補者は、三度目の選挙だし、処方箋も与えてるし、イメージ戦略も成功してる・・と自負していたので…選挙本番の頃はほったらかしでした(苦笑)まあ…本音を言うと、先輩に殺されたくないからもありました(苦笑)。
  さて、結果ですが…、定数6名。トップ当選は、候補を二人から独りに絞った公明党が、12000票強。ついで、先輩議員が2位。そして、後輩が3位に入りました。お役目終了です。ハイ。
  しかし、ボクと契約が切れた、この四年後の選挙では、
  また、彼は最下位当選となってました(苦笑)


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