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●1991年春
  四月に迫る統一地方選挙を前にして、街は候補予定者達のポスターが氾濫していた。ボクが、その街に車で通過するとき、その男のポスターはかなり目立っていた。ただ、プロのボクから見ると、ただ顔が大きく、名前もとにかく大きいだけの、ありふれた選挙ポスター。目立ってはいるが…ポスターそのもののインパクトは全く無い。しかも、顔は、お世辞にも「イケメン」とは言えない(苦笑)それ。そんな顔をアップにするなと!言いたい程だった(笑)。ただ、ボクは選挙関係者だから、その名前は記憶に残ったのは確かだった。ボクは、この統一選では、別の街A市の市長選に入れ込んでいたので、この街の選挙とは無縁だった。
  そして、統一選が終了し、この男は、定数6名の市会議員選挙で、結局第11位のブービー賞。最下位6位当選の候補が4653票で、この男は1930票。この街では、およそどの区でも5000票以上が、最低当選ラインギリギリという街。次点が、4286票、次次点が4196票だから…まあ、ハッキリ言ってお話にはならない典型的な「泡沫候補」でした。


●1994年春
  1994年早春、ココで何度か登場するフィクサーに突然の呼び出しを受けました。このフィクサーが支援するこの街の新人代議士にボクを紹介するためでした。そのフィクサーの豪邸の広い応接間に入ると、すでに7人位の若者が待っていました。その中心にいるのが、ボクと契約したいという新人代議士。そして、その秘書軍団でした。(なんじゃコリャー!と思いましたが…苦笑)まあ、政治家にはいろんなタイプがいます。こういう「皆仲間!」ちゅう雰囲気が好きなのか…もしくは、こんなに自分を慕うのがいるぞ!と見せつける意図なのか…ボクはこういうタイプはあまり好きではありません。ボクに言わせれば、「一人では、心細くて来れなかった」ということでは無かったかと思います。
  まあ、しかし、フィクサーの仲介ならボクは断ることが出来ません。『じゃ、まあ、その方向で!』という返事で「会談」は終了しました。
  その後、その若者達とも雑談となり…一人ずつ名刺交換もし…まあ、ボクが見て、「コイツは市会議員になんか向いてるな…」とか思うのもいました。皆、ほぼ20代の男どもでした。そして、見たことある顔が一人いました。『なんかオマエさん、顔見覚えあるな…』とボクが言うと、『アノー、私、3年前に●区で市会に出まして、落ちたモンです!!』ボクは、思いだしました。『アアー!あの泡沫候補の●●クンかー!(苦笑)』可哀想ですが…笑ってしまいました。
  彼は嫌な顔をせず『ココで、ヤマグチさんにお会い出来ると聞いて、楽しみにしていました!なんせ、もうヤマグチさん言うたら、もうホンマにこの世界では、有名ですから…ホント、今日は嬉しく思っています!』とお世辞たらたらと…言いよりました。そして、この豪邸を出るとき、彼が皆から飛び出して、再び、車に乗りかけたボクを追いかけて来て…『ヤマグチさん!近々、ご相談に伺っていいでしょうか!!是非、お時間頂きたいのですが…』とささやきました。『エエで!いつでも連絡しておいでー!』と快諾してあげました。
  数日後、彼から連絡あり、神戸の須磨海岸に面した、当時のボクの制作スタジオに呼びました。彼の相談は、『前回は、確かに泡沫候補でしたが、再び挑戦したい!是非コンサルをお願いしたい!』ということだったのです。
  コレは難しい相談です(苦笑)なんせ、この候補者は、いくらなんでも、いくらボクでも「うーん難しいなあ…」と考えこんでしまいます。先ず、ボクが思ったことは、彼が泡沫の第11位で終わった選挙区では、もう絶対に無理!と判断しました。ボクはこの決断は即でした。彼に『他の選挙区でなら、君のイメージも新たに作れるから、ひょっとしたらなんとかなるかもやけど、●区ではアカンわ!諦め!たとえば●区ではどうや!?あの区なら浮動票が多いから、可能性が無いことはないで!どやろ?』彼は『一度、検討させて下さいますか?ヤマグチさんが、そう言われるなら…前向きに考えたいと思います』と言い残して、その日は帰った。この日判ったことは、彼も、同じ県内の代議士の秘書出身だった。そういう経歴でも選挙のやり方が、トンチンカンなのは意外に多々なんです。皆さん、そういう経歴だけで「選挙のプロ」とみてしまうのは止めましょう。ご注意ください(笑)


●ゼロからの、怒濤の運動スタート!
  数日後、彼が再び、須磨のスタジオにやって来ました。『是非!●区で男にしてください!●区に変更OKです!ゼロからやります!すべて、ヤマグチさんの仰られる通りに動きます!なにとぞ、ご指導下さい!』
  すぐに、イメージ戦略に着手し、ロゴデザインを作り、スタートしました。来るべき選挙は一年後の4月です。まあ、言うとおり動けば、泡沫には先ずならない…という自信はありました。しかし、彼の希望は市会では無く、県会でした。まあ、本人が家族等と相談して決断したのでしょう。県会は、15000票以上獲らないと、当選圏内ではありませんので、ハードルはかなり高くなりましたが…まあ、そこはプロのボク。受けて立ちました。彼や彼の家族は、ボクが実施する、イメージ戦略の全区全戸ビラとかの作戦は、市会選挙も県会選挙も同じ選挙区民相手なので、同じお金かけるなら…「県会!!」と判断したのかもです。
  彼は、見た目はとても「浮動票」が獲得できるタイプではありません。コレは万人が認めていました(苦笑)。しかも、彼の政治的体質は、かなりの「右寄り」。国粋主義的人種です。そういう体質が知れ渡ると選挙にはマイナスです。当然、本来は自民党体質なのですが、この選挙区には、自民党の現職がいますので、自民公認は無理です。
  無所属でいくしか道はありません。勿論、彼にはレクチュアで、『選挙はなあー、一番強くなるには、無所属自分党の支持者を沢山つくることや!党の看板なんかを宛にする選挙をやってたら、落ちることもある!エエな!』と言い含めました。彼の当選のためには、イメージ戦略も重要ですが、こういうタイプは「なりふり構わず…必死で戦っている!」という姿を有権者に焼き付けねばなりません。(しまった!ノウハウや!)
  彼に指示した「ドブ板戦術」は過酷なものでした。あらゆる考えられるドブ板運動はすべてノルマとして与えました。並の根性では出来ません。かなり過酷な運動量でした。しかし、彼は、言われた通り、黙々と「なんだ坂、こんな坂!」と必死で頑張ってました。彼のその「頑張りの目安」を知って貰うのは、ココでは大事かなと思うので、戦術のヒトツのノウハウを明かすと、彼に課したヒトツの大きな作戦は、『選挙区全部の家を戸別訪問せよ!!』でした。
  そして、その訪問時に一番大切な「作業」は、『ひょっとしたら、君の支持者になるかも…という有権者を探せ!!』ということでした。
  この選挙区は世帯数約90.000戸。普通、運動員が、まともに出来る一日の戸別訪問軒数は、平均300戸。訪問したときの、「文言」や「支持者調査」等が綿密に入れば、軒数はやや落ちます。
  彼が、一年後に挑戦する県会議員選挙は、定数3名で、現職3人います。その現職達の支持者なのか…そうではなく、ノンポリで特に誰を強く支持してる…は無いのか…それを訪問時に「探り調査」をするのです。これ以上は大事なノウハウなので書けません(笑)なんと、その運動を、彼はそのスタートした4月〜年末くらいまでに、一日400軒〜500軒を訪問し、90.000戸を制覇したのです。
  勿論、「ココは、自民現職やな!」「ココは、民社現職やわ!」「ココは共産現職じゃ!間違い無い!」と調べ上げ…そして、最も大切な「ココは、特に誰とも決めてないなあ…ヨシ」という風にです。コレはハッキリ言って「宝」です。後々にも。この「熱心さ」と「根気」には、さすがのボクも感服ものでした。
  また、このコンサル契約中、彼ほど『スミマセン!聞いてイイですか?あのー…』とイロイロ質問を浴びせた候補者はいません。一日に数回もザラでした(苦笑)。ボクの21年にわたるこれまでのコンサル歴でも、今だに、彼のそれを超えるのは一人もいません(笑)


●阪神大震災!!
  1995年1月17日、阪神大震災が彼の選挙区も襲いました。当然、運動はストップです。選挙どころではありません。結局、この阪神間では、4月に予定されていた選挙は、すべて6月に変更されました。しかし、6月といっても、まだまだ復興の緒にもついてない時です。
  ボクは、この時の統一選で、この阪神間でおよそ10数名の候補者の面倒を見ていましたが…ボクは「終わったな…」と思いました。ボクのそれらの候補者に実施してきた「イメージ戦略」は、そういう事態では通用しない雰囲気のモノです。ボクは基本的に、「この候補者オモロイなあー!ちょっと変わってるなあーー!どうせ、誰に入れるか、特に決めてないねんから、コイツに入れたろかなー!!オモロそうやし!』という風に考えるような「有権者」「浮動票」を一番のターゲットにしています。コレはいまでも同じです。この阪神大震災に直撃され、誰もが、不安で、絶望感を抱き、選挙どころでない…という状況下では、そんな「遊びココロ」を擽って、投票に行かせる…という得意のイメージ戦略が通用する筈がありません。なんせ、この震災から…数ヶ月は、誰も、事前運動が出来ないし、やっては「大ひんしゅく」となるのは目に見えています。当然、ボクも被災地に住んでるので…数ヶ月はそれどころではありませんでした。
  まあ…これは、すべての候補者に仕方のない運命だったのでしょう。


●固定票で勝負だけの選挙だったが…
  大震災から半年、その年の6月にこの阪神間で統一地方選挙が実施されました。しかし、街はまだまだ復興せず、「選挙どころで無い」という雰囲気でした。また、選挙で定番の宣伝カーも自粛。とにかく、形だけのセレモニー的な、静かな、静かな選挙戦で終わりました。
  ほとんどの選挙区で、公明党や共産党が手堅くトップ当選というのが象徴的な「どんな状況でも選挙は必ず行く」という両党のような「固定組織票」を持つところが圧勝しました。とにかく、この復興優先の時は「新人」より「現職優先」という認識に有権者は考えたと思います。
  当然、彼は落選しました。しかし、なんと、そういう状況下に10.000票を超える票を獲得したのです。あの、4年前の「泡沫候補」がです。コレは次に繋がるぞ…とボクは思いました。彼の大震災までの「血と汗のにじむ激しい運動」が間違いなく効果を発揮したのです。
  彼は、再挑戦に向けて…また活動を開始するのです。ボクは彼に言いました。『もう、次期に向けての契約はしなくてイイ。今回の指導で、もう十二分に選挙のやり方判ったやろ!また、資金も使い果たしたやろし…次期に向けてのここ3年は、コレまでと同じ運動を踏襲すればイイ!また、聞きたいことがあったら、いつでも来ればイイし、電話もOKや!』
  また、翌日から、彼の「怒濤の運動」が始まったのです。


●それから3年程経ち…
  彼が、「怒濤の運動」を継続してるのは、いろんなところからも耳に入りました。彼は、盆暮れには、必ずボクとこに顔を見せ状況報告をしました。順調に全世帯戸別訪問も経過していました。2年半くらいしたときに、すでに90.000世帯を2巡したと言ってました。朝夕の駅立ちも、もう4年間、休むこと無く…朝は、5時前からです。こんな「根性」のある候補者はホント見たことありませんでした。
  そんなある日、あと一年ちょっとで、また統一地方選という頃です。彼が突然、当時六甲山の裏の谷間に移転したボクの制作スタジオにやって来ました。『ヤマグチさん…実はですねー、地元のある有力市会議員から突然呼び出しを受けましてね…その人がですねー、衆議院に打って出るちゅうて、ほんで、私を後継者にしてあげるちゅうんですけど…ただですね、条件がありましてね、当選した場合は、彼が所属してた会派に入らんとあかんのですわ!どうしたもんかと悩んでましてね…』ボクは先ず、やや語気を荒げて言いました『君、以前から、県会、県会と念仏を唱えるがごとくやったやんか!その志はどうなったんや?』彼はしみじみと『はい!いまもその気持ちは変わりません!しかしですねーホント、次回また落選したら、もうチャレンジ出来ません!家族も親戚も皆もうそう言ってます。なんとかして当選せねばならんので…こういう話なので悩むんです』ボクはシビアに言いました『君なー、県会から、市会へちゅう話が、そういう所から降って、それでどうしようか悩んで…なら、そんな話はやめとけ!!旨い話には、なんとかや…オマエさん、その市会議員さん等を信用できるか?これまでどんな付き合いがあった??そんな話があって…では無く、冷静に判断して、なんとしてでも次回はバッジを付けたい!県会でも市会でもイイから、先ず、議員になりたい!それからその後の展開は考える…・・というなら…まだ、話はワカランでは無いがな…どうや?』
  彼は、しばし、無言となり…こう切り返して来ました。『もしですね、ヤマグチさん、ボクがこれまで県会を目指してやって来た運動は、市会に変更して、無駄になりますか?』『無駄になるわけ無いやん!同じ選挙区やで!対象世帯も全く同じや!すべて、生きるがな!!』また、彼はしばし無言となり…こう聞きました。『もしですね、ボクがいまから市会に乗り換えたら…当選確率はどの位に上がるのでしょうね??どう思われます??』ボクは即座に『三倍じゃ!!!』と答えました。彼は『えええっーーー!!!ほんまですかあああああーーーー!!!三倍ですかーーーー!!!!!』『ちょっと、家族等とも相談して、また結論だします!!』と言って帰りました。結論は早かったです。翌日彼から電話があり『市会に変更します!!但し、その市会議員さんのお話は断ります!独自で挑戦します!!』


●驚きの結果!!
  そして、また、彼の怒濤の運動が再開しました。死にものぐるいの運動だったと思います。ガリガリに痩せてきてたのが印象的でした。しかし、顔は日焼けで真っ黒でした。審判の日が近づいて来ました。選挙の2ヶ月前に世論調査をしました。ただ、この時の調査は、そんな資金の無い、彼からの依頼ではなく、各区で候補者を抱える、ある政党支部の依頼による有権者動向調査でした。結果が判っても、彼には教えられません。秘密厳守は厳しい企業モラルです(苦笑)。
  結果は素晴らしいものでした。なんと、彼は立候補予定者が17名もいて、定数は11名の、この選挙区で、先ず知名度は61.1%でトップ。数ある何回も当選している現職議員よりはるかに高い知名度でした。2位の自民党現職の知名度が49.8%なのですから。そして、重要な支持度ですが、これも彼は3.6%でトップだったのです。2位以下が、2.6%以下0.7%程度の支持率という中でです。
  ボクは、彼に伝えたい気持ちは溢れていましたが…まあ…こういうのを知って、気がゆるむより、勝ってるかどうかワカランまま、本戦に突っ込んだ方が彼のためだと…自分に言い聞かせました。
  彼のたゆみない「努力」は実を結びました。それも圧倒的な結末でです。なんとなんと、この街の市会議員選挙に各区から立候補してる人たちの、およそ100名以上の中で、最高得票の約1万4千票近くも獲得したのです。県会の1万票と市会の1万票は大きな意味が違います。候補者の数が、市会では県会の3倍ほどいるのですから…。
市でもトップ、勿論選挙区でもトップ当選を成し遂げたのです。
見事な、見事な勝利でした。
ちなみに、その後、彼は県会議員となって当選を重ねています。


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